対馬・壱岐への旅行ー5月31日~6月2日
- 2023/06/08
- 18:15
5月31日~6月2日にかけて長崎県の対馬・壱岐の島へ旅行会社のツアーに乗って旅行に行ってきました。台風2号を心配しながらの観光旅行。
対馬を2回に分けて、壱岐の島は1回でアップします。
プロペラ機

今回の旅行は中部国際空港(セントレア)から福岡空港へ。福岡空港でプロペラ機に乗り換えて対馬空港へ。プロペラ機に乗ったのは本当に久しぶりでした。プロペラ機と言っても70名くらいの定員なのであまり小型機という感じではなかったです。
対馬上空

対馬は日本の歴史でも大きな存在で朝鮮半島、大陸からの文化や政治や物資の窓口となってきた島。今回はそんな歴史を見るのが1つの目的。飛行機の窓の関係であまりよく外は見えなかったが、少し見えた島の様子。海から切り立った崖。魏志倭人伝に
対馬は険しい山で田や畑は少ないとある通りの島でした。案内してもらった順番で写真をアップします。
対馬

島の概要です。大きく南と北に分かれます。北は自然、南は歴史を見る。今回は中部から南のエリアの観光でした。
縄文時代~現代までこの険しい山の島なるがゆえに大陸と日本の狭間で島の苦労と知恵生き延びてきたのが島の歴史です。
お舟江跡

この島の中心は厳原(いずはら)。厳原港は船の出入りの中心港。その港の左側にお舟江という字が見えます。最初の見物はここ。
お舟江へ

この島は江戸の終わりまで対馬藩が治めていました。その対馬藩の御用船を係留した船だまりがこのお舟江。
お舟江

ここに船を係留して修理などしていた。1663年に作られたとのこと。お舟江を持った藩は多かったようですが、今現在これだけ原型をとどめている例はまれ。
金石城

対馬藩の藩主は宗(そう)家。この金石城がお城です。正面に見えるのが城門。日本の中世~近世にかけて朝鮮外交の最前線となったお城。今は城はほとんど残っていません。右側の黒っぽい建物は対馬博物館。
金石城石垣面白くてきれいな石垣でしょう。この島はこうした石が沢山採れる。大きな石、小さな石を独特の方法で組み合わせて石垣や塀などを作る。普通の家の塀でもこうした石垣で作られているのが沢山見られました。
対馬博物館:昆虫展

対馬博物館には対馬の縄文時代~現代までの展示がしてありましたが、今回は隣の部屋で展示されていた昆虫館から2つだけ紹介します。1つはこのツシマウラボシシジミの標本。日本では対馬にだけ生息するシジミチョウ。翅の表と裏です。裏に黒い星が1つづつ。大きさはルリシジミくらいの大きさ。
ジャコウアゲハ対馬産のジャコウアゲハ。別の名前もついていなかったのでジャコアゲハ。これが我々が見ているジャコウアゲハとは思えないほど違って見えますね。
金石城門
ツシマヤマネコ街の中の通りに出ていたツシマヤマネコのポスター。ツシマヤマネコは島の北の森の中に住んでいる。もう1つの自然はヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)の自生地も島の北にある。ヒトツバタゴは岐阜県の東濃地方を中心とした地域とこの対馬が隔地自生地。
そんな縁で対馬市と中津川市は姉妹都市として提携して小学生の交換をしているとのことでした。
朝鮮通信使

秀吉の朝鮮出兵によって断絶した日本と朝鮮の交流は対馬藩の努力によって江戸時代になって復活し、朝鮮通信使となって交流が行われました。その間のいきさつは面白いので興味がある方は調べてみてください。
朝鮮通信使

江戸時代には12回行われてそのルートは御覧のようなルートで江戸、さらに日光までの道のりでした。
萬松院対馬藩の藩主:宗家の菩提寺です。
萬松院の三具足

朝鮮国王より宗家に贈られた三具足。日本の歴史遺産に認定されています。
宗家墓地へ百数十段の階段を登って。
宗家墓地かなり広大な墓地でした。なんでも日本三大墓地というのがあってそのうちの1つなのだそうです。何代にわたる当主のお墓なのか。
宗義智公像:対馬藩初代藩主1580年ころ対馬藩の初代藩主になった。しかし宗家としては19代当主というから宗家は古い古い家なのですね。従って当主のお墓も大きな墓地が必要。なお、現在も宗家は続いています。
半井桃水記念館:朝鮮・中国から見た日本

この後、樋口一葉の先生で恋人とも言われている半井桃水がこの対馬の出身なのでその記念館へもよりましたがその中から1つだけ。これが朝鮮半島や中国の人たちが見慣れた地図。日本列島の位置が良く分かります。黒丸で囲ったところが対馬。
尚、対馬の行政は長崎県、経済依存は福岡。福岡から壱岐の島までは約70km、壱岐の島から対馬までは約70km。
対馬から朝鮮半島までは約50km。朝鮮半島で上げる花火が天気によっては対馬から見える。
今日の記事は終わります。
最後までお付き合い有難うございました。
次回はこの続きです。
尚。今回の旅行記はコメント欄は閉じておきます。
対馬を2回に分けて、壱岐の島は1回でアップします。
プロペラ機

今回の旅行は中部国際空港(セントレア)から福岡空港へ。福岡空港でプロペラ機に乗り換えて対馬空港へ。プロペラ機に乗ったのは本当に久しぶりでした。プロペラ機と言っても70名くらいの定員なのであまり小型機という感じではなかったです。
対馬上空

対馬は日本の歴史でも大きな存在で朝鮮半島、大陸からの文化や政治や物資の窓口となってきた島。今回はそんな歴史を見るのが1つの目的。飛行機の窓の関係であまりよく外は見えなかったが、少し見えた島の様子。海から切り立った崖。魏志倭人伝に
対馬は険しい山で田や畑は少ないとある通りの島でした。案内してもらった順番で写真をアップします。
対馬

島の概要です。大きく南と北に分かれます。北は自然、南は歴史を見る。今回は中部から南のエリアの観光でした。
縄文時代~現代までこの険しい山の島なるがゆえに大陸と日本の狭間で島の苦労と知恵生き延びてきたのが島の歴史です。
お舟江跡

この島の中心は厳原(いずはら)。厳原港は船の出入りの中心港。その港の左側にお舟江という字が見えます。最初の見物はここ。
お舟江へ

この島は江戸の終わりまで対馬藩が治めていました。その対馬藩の御用船を係留した船だまりがこのお舟江。
お舟江

ここに船を係留して修理などしていた。1663年に作られたとのこと。お舟江を持った藩は多かったようですが、今現在これだけ原型をとどめている例はまれ。
金石城

対馬藩の藩主は宗(そう)家。この金石城がお城です。正面に見えるのが城門。日本の中世~近世にかけて朝鮮外交の最前線となったお城。今は城はほとんど残っていません。右側の黒っぽい建物は対馬博物館。
金石城石垣面白くてきれいな石垣でしょう。この島はこうした石が沢山採れる。大きな石、小さな石を独特の方法で組み合わせて石垣や塀などを作る。普通の家の塀でもこうした石垣で作られているのが沢山見られました。
対馬博物館:昆虫展

対馬博物館には対馬の縄文時代~現代までの展示がしてありましたが、今回は隣の部屋で展示されていた昆虫館から2つだけ紹介します。1つはこのツシマウラボシシジミの標本。日本では対馬にだけ生息するシジミチョウ。翅の表と裏です。裏に黒い星が1つづつ。大きさはルリシジミくらいの大きさ。
ジャコウアゲハ対馬産のジャコウアゲハ。別の名前もついていなかったのでジャコアゲハ。これが我々が見ているジャコウアゲハとは思えないほど違って見えますね。
金石城門
門から出て街へ
ツシマヤマネコ街の中の通りに出ていたツシマヤマネコのポスター。ツシマヤマネコは島の北の森の中に住んでいる。もう1つの自然はヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)の自生地も島の北にある。ヒトツバタゴは岐阜県の東濃地方を中心とした地域とこの対馬が隔地自生地。
そんな縁で対馬市と中津川市は姉妹都市として提携して小学生の交換をしているとのことでした。
朝鮮通信使

秀吉の朝鮮出兵によって断絶した日本と朝鮮の交流は対馬藩の努力によって江戸時代になって復活し、朝鮮通信使となって交流が行われました。その間のいきさつは面白いので興味がある方は調べてみてください。
朝鮮通信使

江戸時代には12回行われてそのルートは御覧のようなルートで江戸、さらに日光までの道のりでした。
萬松院対馬藩の藩主:宗家の菩提寺です。
萬松院の三具足

朝鮮国王より宗家に贈られた三具足。日本の歴史遺産に認定されています。
宗家墓地へ百数十段の階段を登って。
宗家墓地かなり広大な墓地でした。なんでも日本三大墓地というのがあってそのうちの1つなのだそうです。何代にわたる当主のお墓なのか。
宗義智公像:対馬藩初代藩主1580年ころ対馬藩の初代藩主になった。しかし宗家としては19代当主というから宗家は古い古い家なのですね。従って当主のお墓も大きな墓地が必要。なお、現在も宗家は続いています。
半井桃水記念館:朝鮮・中国から見た日本

この後、樋口一葉の先生で恋人とも言われている半井桃水がこの対馬の出身なのでその記念館へもよりましたがその中から1つだけ。これが朝鮮半島や中国の人たちが見慣れた地図。日本列島の位置が良く分かります。黒丸で囲ったところが対馬。
尚、対馬の行政は長崎県、経済依存は福岡。福岡から壱岐の島までは約70km、壱岐の島から対馬までは約70km。
対馬から朝鮮半島までは約50km。朝鮮半島で上げる花火が天気によっては対馬から見える。
今日の記事は終わります。
最後までお付き合い有難うございました。
次回はこの続きです。
尚。今回の旅行記はコメント欄は閉じておきます。
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